うひゃー

もう古い話題なのですが。

強制法という強力なツールを引っさげて集合論研究の最前線へ突進を続けるくるるさん

http://www.tenasaku.com/tenasaku/tepipi/diary200907.html

いくらなんでも過大評価しすぎワロタwwwwwwwwwwwwwww。

って感じです(私が学生だった頃にすでに確立された研究者だったてなさくさんに失礼な表現ではありますが)。「突進を続ける」を「ずっこけ続ける」くらいにしておいてください。

Social processとしての証明の受容

もう随分前の話になりますが、ASL meetingで「証明が受け入れられるのはsocial processである」などというテーマでしゃべっていた人がいて、その時はちょっとムカついていたものですが、最近はそんなものかなと思っています。理論的には証明さえキッチリできていればそれ以外の要素は何も無く正しさが保証されるわけですが、その時代ごとの最高の知性を持ってしても間違いは避けられないというのが歴史の教えるところでしょう。
だから、定理を理解するというときに、証明を追うだけだとやっぱり不十分で、やばめのケースではどうなっているのかとか、どの条件を落とすとどこで証明が壊れるのかとか、そういうのが不可欠ではないかと。もちろん私が常にそのレベルで論文を読んでいるとは言いませんが(というか、滅多にそのレベルまでは読み込めません)。一般性を持った定理と病理的な反例を行ったり来たりすることは重要だと思います。
というわけで、やっぱり「直感的な定理は認めちゃえば?」ってのも極端ですが、「証明を追い切るのが何よりも大事」というのも一面的かと思うわけです。

それ以前に、私は短・中期記憶力がとても低くかつ一時的な視野が狭いので、物事は一つ一つカプセル化して理解していく傾向が強く、ある補題を使おうとしている時点ではその証明までは視野に入っていません。ですから、証明を追ったことがあるかどうかであまり違いが出ないんです。かがみさんとはそういう点で物事の把握の仕方が違うのだろうと思います。ってわけで。