id:aurelianoさんへ
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081117/1226917158に対する返答です。
まずはお返事ありがとうございます。
と書かれていますが、ぼく自身がゲーデルがどういう考え方だったかということについて問題にしているわけではないので、「ゲーデル本人の見方と異なっている」と言われても、何も答えようがないのです。
そう聞いて安心しました。id:aurelianoさんがhttp://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081102/1225620016で「世界が矛盾していること」をゲーデルの結果として提示したと解釈したことこそが、私が憤りを感じた理由だからです。そこでは以下のような議論を展開しているものと考えていました。
これは大変危険な論法であると思います。1で「ゲーデルの不完全性定理はそういうものではない」という批判を封じ、2でそれにもかかわらず世界が矛盾していることをゲーデルという権威を後ろ盾に主張し、3で議論なしの二者択一を迫るという構造になっています。これでは、結論に同意しない側が出来ることはほとんどありません。幸いにして、ゲーデルが2のような主張をしていないというかなりはっきりとした証拠があるので、それを突き崩すことは可能でしたが。それが私のやりたかったことです。
2が、ゲーデルの主張として提示されているのでなく、id:aurelianoさんの考えとして述べられているのでしたら、それはid:aurelianoさんに反論すればよいだけの話なので全然違ってきます。反論というのは実際にid:aurelianoさんとやりあうということではなく、自分の中で反論を組み立てて納得することも含みます(というか、主にそのつもりです)。
ですが、ゲーデルがどのような考えだったのかを問題にしていないのならば、以下のようなゲーデルを主語にした表現は非常に紛らわしいので、今後は避けることをお勧めします。
ルビンの壷が人の顔を描いてないのにそこにそれを感得させるように、ゲーデルは数学の証明をしながら世界の実相についても証明してみせた。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081102/1225620016
そうした世界の矛盾した様相というものをとことんまで突き詰めた人が世の中にはいて、それはゲーデルでありバッハでありエッシャーだ。「ゲーデル、エッシャー、バッハ」という本には、そうしたことが書かれている。中でもゲーデルは数学的にそれを証明してみせたのだから凄い。この世が矛盾しているということは、ゲーデルがすでに数学的に証明しているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081015/1224056847
それと、id:MarriageTheoremさんがこれはid:kururu_goedel氏を支援せざるを得ない - Marriage Theorem 新居で仰られているとおりに、証明という言葉は数学においては非常に明確で限定的な意味を持ちます。日常用語としてもより広い意味で使われることはもちろん承知していますが、数学の定理であるゲーデルの不完全性定理に関する文の中で証明という言葉を使う場合には数学における証明として解釈するほうが普通でしょう。ですので、例えば下のような部分では「証明」という言葉を使わないほうが良いと思います。それは、私たち数学者でも気をつけることです。
ぼくは、これらのことを援用して、「ゲーデルの不完全性定理は世界は矛盾していることを証明している」ということを言いたかったのです。これについては、ここで少し長くなりますが、どういう意味だったかを説明します。
また以下の部分。
だからぼくは、ゲーデルに関しても、まずは「数学には証明する事もできないし否定を証明する事もできない命題Gが存在する」という直感があり、それに基づいて不完全性定理を編み出したのかと思ってました。そうしてその直感は、「数学の限界を示」すことができる、という考えに基づいていたものなのではないかと思っていたのですが、違うのでしょうか?
ゲーデルが不完全性定理を証明するに至った経緯に関しては私はよく知らないのでわかりません。ただし、彼が「数学の限界」ではなく「唯一の数学の宇宙」とそれを人間が解明できる能力を信じていたという証拠はたくさんあります。例えば、
- 完全性定理を証明したこと
- 不完全性定理を発表する論文でも、ヒルベルトのプログラムが実行不可能になったわけではないことを強調していたこと
- 不完全性定理の後も、主に集合論に関する研究を続けていたこと
- 連続体仮説がZFCから独立だとわかっても、連続体問題が解決できたわけではないと主張していたこと
- 当時の集合論の流れに逆らって、「連続体濃度はである」と主張していたこと
などです。特に最後のものは、数十年の間ほとんどの集合論者が理解できなかった主張です。それが、最近になってようやくWoodinなどの研究によりその妥当性が明らかになってきました。その辺の話はゲーデルと20世紀の論理学 第四巻 集合論とプラトニズム - くるるの数学ノートにも書きましたが。これは、誰よりも強く「数学の全ての命題は決定できる。単に、帰納的に定義可能な公理系から証明する方法だけでは足りないだけだ」と確信していたからこそ、(証明はできなかったにしても)「引き寄せる」ことが出来たのだろうと思います。
もし違うのだとしたら、ここからは推理になってしまいますが、心の奥底では、密かに「数学の限界」というものについて薄々認めざるを得ないという思いを抱えていたのにも関わらず、表層意識ではそうした「数学の限界」を認められなかったというジレンマがあったのではないでしょうか。そうしてその齟齬が、彼を苦しめ、追い詰めていったのではないでしょうか。解釈としては、それの方が自然だと思うのですが、いかがでしょうか。
すでに書いたとおり、自然だとは思いません。まあ、心の奥底のことはわかりませんが。多くのそれとは反する証拠にもかかわらず、もしかしたらid:aurelianoさんの言っているとおりかもしれません。また、id:aurelianoさんは心の奥底では「世界は明快に理解することが出来る」と感じていてそれを読者の人たちに共有してもらうために、裏付けの薄いエントリを書いたのかもしれません。id:tororo-imoさんは心の奥底では「世界が矛盾している」と信じていて、そのより確かな証拠を引き出すためにid:aurelianoさんに怒っているのかもしれません。(冗談が通じない人がいるかもしれないので念のため。これらはとてもあり得ない話の例であって、私がそう思っているわけではありません)。ただ、想像するのは自由ですが、それを根拠に何かを主張することは出来ないでしょう。
繰り返しますが、id:aurelianoさんが自分の意見として言うなら私はあまり気にしません。初めからそういう意図であったというのならば、誤解が解けてよかったです。もっとも、「世界が矛盾している」という主張には同意しませんが。id:tri_iroさんの言うとおり『「パラドキシカル」は非常に面白いものだけど、本物の「矛盾」は論理的にとてもつまらないものです』から。