昨日のやつ補足。

これがちょっと誤解を招いているようなので補足→Social processとしての証明の受容 - くるるの数学ノート

「物事の把握の仕方」というと大げさすぎますが(というわけでその時点で言葉の選択を間違えていますが)、問題を解こうとするときのスタイルは人それぞれで、むしろ人によって違うからこそ新しい視点が得られるのだと考えています。例えばJustin Mooreはシンプルだけど妙な構造を新しく作ってからそれを通して問題をみてやるというスタイルで、なぜかその新しい構造が異常なほどに本質的だったりします。その発想がどこから来るのかまったく不明でいつもこの人は違うなぁとおもいます。彼との共著の論文で査読者が「この定義のmotivationを書いて欲しい」とか要求してきて、彼なりに一生懸命書いたパラグラフがあるのですが、私を含む凡人には全く意味不明で芸術家の発想と同様にそのすごさをただ堪能するべきだと思ったものです。
それに対して、Paul Larsonは彼が深く理解している強力なツールを軸に問題をそこに落とし込むスタイルですよね。まあ、彼はわりと万能なのでパートナーによってずいぶんと違う感じになりますが。最近論文を見ていませんが、Jindra Zapletalなんかはもっと細かい工夫ですり抜けるような感じで。もっと上の年代の人たちについてはよりはっきりと違いがあるように思います。
そういう人たちから比べると、私は大きなシナリオは似た問題ですでに成功されているものから取ってきて、上手くいっていないところを局所的になんとかするような感じです。これはもう、全体の戦略を練れるだけの大局観が無く、全部をみながら詳細をいじり続けられるだけの記憶力が無いという、欠点をカバーする形で出来上がってきたスタイルで、あんまりほめられたものではないです。ついでにいうと、Shelahの実数を付け加えないiterationに関する補題は3回くらい理解しようとして挫折しながら、あちこちで使っているので、「証明を理解していなければダメだ」なんて口が裂けても言えません(ダメじゃん)。えーと、ダメだと私もやっぱり思いますので、誰かわかりやすく書き直してくださいませんか?

というわけで、私としては卑下が95%くらい、残りは「反例も大事だと思うんですけど」という消極的な主張なつもりなわけで、そのように読んでくださると助かります。