私が考えていることは全て羽生棋士が既に言っているのではないか症候群

またもや羽生喜治善治棋士(以下敬称略)の言葉に引っ掛けますが。

http://d.hatena.ne.jp/kaz24/20060518/1147984980
週刊東洋経済TKプラス | Key Personプラス: - 「ネット社会を生きる奥義」 羽生善治(前編)(1)
週刊東洋経済TKプラス | Key Personプラス: - 「ネット社会を生きる奥義」 羽生善治(後編)(1)

数学に関して少し偉そうなことを書こうと思うと、実質的に羽生がどこかで書いていることになってしまいます。はてブでもそれなりに登録されているんですが、いまいち核心部分が理解されていないように思うので、よろしかったら読み直してみるのもよいのではと。

では逆にそれまでの積み重ねはなんだったのか
知識としては役に立たないとは断言できる
しかし全く見なかったかたちになったときにどう適応するか、どう学んで理解するか、
そのためにどうすべきかという方法論としては無駄ではなかった
つまり知識ではなく知恵として使っていくのがいい
むしろ知識は逆に邪魔になってしまうことも多い(「こういうやり方で上手くいったから次も上手くいくんだ」)

最近では、莫大な知識の積み重ねが知恵を生むと感じている
量を積み重ねていって、単なる知識、量に過ぎなかったものがある一定量に達すると知恵になるのではないか
その点に非常に興味を持っている

大学での数学 - くるるの数学ノートで言いたかったのは、要するに「本当に身につけて欲しいのは(羽生が言うところの)知恵なのだ」ということですね。それを教えるのが高等教育機関のやるべきことなんじゃないかと。ただ、知恵を直接伝えるのは不可能なので、知識を教えていくしかないのです。「知識としては役に立たない」かもしれないけれども、それを積み重ねていくなかで知恵になっていくのを願うしか。自分の大学院時代を省みても、指導教諭が本当に伝えたかったのはそういう部分なんだろうなぁと思うわけで。
ってことがわかって大学院生活を送っていたらちょっと違っていたかもなぁ。まあ、今現在そのステージの人は頑張って欲しいなと思います。
つまり、理解して欲しいのは証明ですらないわけなんです。その裏にある、羽生が知恵と呼んでいる何か。だから、「証明がわかっても問題解けないじゃん」というふうに言われると、教える立場からすると脱力だな、ということでして。