ゲーデルと20世紀の論理学 第四巻 集合論とプラトニズム

ゲーデルと20世紀の論理学 4 集合論とプラトニズム

ゲーデルと20世紀の論理学 4 集合論とプラトニズム

というわけで書評書きます。集合論者としてのバイアスがかかることはご了承ください。

まず最初に言わないといけないことは、「(特に最近の)集合論に興味がある非専門家の人は、自分が日本語を読めることに感謝しつつこの本を読むべきである」ということ。松原先生による第II部は、英語で書かれたものでもここまでのものはないだろうというくらいに、深いところまで簡潔にしかし手を抜かずに書いてあります。この短さの基礎知識を前提としないサーベイに、プレシピタス性とか飽和性とかウディン基数とかの定義が入っているというのはすごいとしか言いようがありません。
その前にある渕野先生による第I部では公理的集合論の基礎の基礎から始めて、一般連続体仮説の整合性の証明やコーエン強制法のことまで書いてあります。つまり、この本だけで何の予備知識もないところから始めてZF+ADと無限個のウディン基数がequiconsistentだとかいうところまで概観できちゃうわけです。しかも、実際に研究で業績を上げている先生方の文章で。とんでもないレベルです。
Pen Maddy先生とかこのくらいの知識は前提にして哲学の講演しているようですし、たとえば数学の哲学で集合論のことを引いたりするような人は何が何でも読んでおくべき一冊かと思います。

第III 部の戸田山先生の文章も、ゲーデル本人が書いたものを丁寧に読み解いていて、興味深く読みました。Tony Martinの概念的実在論に関する論文を読んだりしたことがあるのでなおさら面白く感じられたのだろうと思います。いくつかの指摘はとても重要なものだろうと思います。たとえばp.243で提唱されている「与えられたもの」の解釈は、ゲーデルの主張を脱神秘化するための議論として有効だと思います。
ですが、いくつか不満な点はあります。まず最初に、概念的実在論という言葉が出てくるのが第4章に入ってからなので、それ以前に触れられているテキストを概念的実在論の立場から見たときにどう解釈できるかについて触れられていないことです。もし最初から概念的実在論をキーワードにしていれば、もっとすっきりとした解釈ができるのではないかと思うのですが。もちろんそれをやらなかった理由は、ゲーデルの哲学が「20年以上かけてゆっくりと発展してきた」という点を明確にするためなのだと思いますが。
また、Sol Fefermanによる"Incompleteness: The Proof and Paradox of Kurt Gödel(Rebecca Goldstein)"の書評*1を見ると、彼の考えと戸田山先生のそれとではかなり食い違っていることがわかります。たとえば、p.236の(8)で引用されている文章をもって、Fefermanはゲーデルがこの当時はプラトニストではなかったと結論付けています。

For example, in a lecture he gave to the Mathematical Association of America in 1933 he made a strongly anti-Platonist statement about the axioms of set theory (proposed by some as a foundation for all of mathematics), namely that ‘if interpreted as meaningful statements, [these axioms] necessarily presuppose a kind of Platonism, which cannot satisfy any critical mind and which does not even produce the conviction that they are consistent.’

もちろん、Fefermanが言っていることがすべて正しいとも限らないわけですが、定説と食い違う主張がある場合にはそう断ってくださると、非専門家としては助かると思うわけです。

んで、田中一之先生による序なんですが。これが単なるゲーデル集合論の関係を年代ごとに見ていく文章だったなら十分良いのではないかと思うのですが、その後に続く三つの大変興味深い部への導入としては少々問題があると考えます。少なくとも集合論者としての私の立場からすると。いろいろツッコミたい部分はあるのですが、象徴的なのはこの部分。

私が学生の頃(1980年頃)には、よく冗談で1963年以前をB.C.(before Cohen)といい、ゲーデルはB.C.の神であったなどといったものである。

もちろんCohenが開発した強制法は恐ろしく重要なテクニックです。ですが、今では彼のアイデアは完全に理解され消化されています。それに比べ、ゲーデルが「カントルの連続体問題とは何か」に書いた問題意識や晩年に取り組んだ2^{\aleph_0}=\aleph_2の証明などは、1980 年代以降の急速な集合論の発展をもたらしたのみならず今でも集合論の世界に影響を与え続けています。そのことは松原先生が第II部にしっかり書いてあるわけです。また、戸田山先生の第III部はこう締めくくられています。

しかし、少なくともアメリカ移住後のゲーデルは数学に費した以上の時間を哲学に費したのであり、その思考からわれわれはまだ多くのことがらを学ぶことができるはずなのである

哲学は詳しくありませんが、ここでもゲーデルはまだ過去のものではなく未だ学ぶ価値のあるものだとされています。それに、Martinの概念的実在論についての論文が出たのは今世紀に入ってからでしたよね。
つまりは、その後の部分では現在そして未来の課題として取り上げられているゲーデルが、序の部分においてのみ過去のものとして取り扱われているのです。それは第I−III部の理解を妨げかねないと思います。田中先生ご自身が時間をかけて編集された本の意義を不明瞭にしてしまっているようでとても残念です。

本当に語らないといけないのは、「ゲーデルと20世紀の論理学」ではないんですよ。専門から少し外れる完全性定理、不完全性定理の評価はともかく、連続体仮説選択公理の整合性の証明ですら彼の真価を示すものではないんです。連続体仮説の整合性を証明したのに2^{\aleph_0}=\aleph_2を主張し、Lと共存しうるような巨大基数しか知られていなかったときに巨大基数公理が連続体仮説に関係すると看破した、その見通しのすごさ。そんな彼からは数学の未来がどのように見えていたのか。21世紀に生きる私たちはそのことを解明していかなければいけないのだと思います。つまり、「ゲーデルと21世紀の論理学」なのだと思うわけです。

えーと、いろいろ書きましたが、数学の哲学を語る人たちの間(研究者もそうでない人も含む)でこの本に書いてあることが共有されるようになれば、ずいぶんと議論が生産的になるだろうと思います。より多くの人たちに読まれることを祈ります。

P.S. なげーよ>自分

*1:id:ytbさん経由、ありがとうございます。