強制法がもたらした変化

またもや、とんでもなく時期遅れのエントリを。

id:nucさんのところのエントリに反応してみるよ - くるるの数学ノート量子脳理論 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3に反応したのですが、そこで書かなかったことをひとつ。

この夏に結構がんばって理解しようとして(生半可に分かっているとも言い難いけれども)、でもたぶん「数学的手法として非常に面白いが」「世界観を変えるものではない」と思いました。

これはid:nucさんの印象としては至極まっとうだと思うんですよ。ただ、強制法が開発された当時の研究者たちにとっては世界観を変えるようなものだったと思うんです。その当時産まれてさえいなかったのでどの程度本当かわかりませんが、とりあえず私の感じとして。

以下に引用するのは、D.Scottの言葉としてKanamoriによって紹介されているものです。

I knew almost all the set-theoreticians of the day, and I think I can say that no one could have guessed that the proof would have gone in just this way. Model-theoretic methods had shown us how many non-standard models there were; but Cohen, starting from very primitive first principles, found the way to keep the models standard (that is, with a well-ordered collection of ordinals)

(試訳)私はその当時のほとんど全ての集合論者を知っていたが、証明がこのようにいくと予想していた者は誰一人としていなかったと言えると思う。モデル理論的方法はどれだけ多くの非標準的モデルが存在するかをすでに明らかにしていた。しかし、Cohenは非常に原始的な最初の原理から始めて、モデルを標準的なものにとどめておく方法を見つけた(すなわち、順序数が整列的であるようなものということである)。

要するに、その当時の人々は、連続体仮説の独立性が言えるならば、そのモデルは非標準的なものであり、その証明にはまだ発見されていない高度なモデル理論が必要だと考えていたわけです。だから、集合論者は同時に他の数理論理学にも詳しくあるべきだと思われていたのではないかと。ところが、Cohenが使った方法は(整理されてみると)数理論理学の他の分野にほとんど依らずに、集合論の中だけで展開できるものだったわけです。そして、その手法、すなわち強制法が恐ろしく強力かつ柔軟性にあふれたものであるということが急速にわかっていったわけです。それだけでなく、巨大基数などと組み合わせることによって、ほとんど集合論の中だけで出来ることがとんでもなく増えてしまったわけです。
この結果として、その後に出てきた集合論者は数理論理学の他の分野に強い関心を持たなくなってきたように思います。というか、集合論が数理論理学の一分野とみなされなくなってきたような気がします。少なくともアメリカでは。実際、私がポスドクをやった某大学の先生は、私のCVに「専門:集合論、数理論理学」と書いているのを見て、「数理論理学での結果が無いのならそう書かないほうがよいと思う」と言っていましたし、ASL(Association for Symbolic Logic) meetingに行ったときに「なんで集合論者がこんなところにいるの?」とか言われましたので。

そういう意味で、強制法の発見は直接的にだけでなく間接的にも集合論の方向性を変えたのではないかと思っています。良くも悪しくも。