SMNさんのコメントへの回答

えーと、とりあえず。
翻訳について - くるるの数学ノート

エクゼクティブサマリー

  • やっぱり渕野先生の文章には問題がないと思います
  • 主観的な部分はありますが、それとわかるように書かれています
  • まあ、全部が全部100%正しいとは言いません
  • でも、たかだかウェブで私的に公開した文章にそれを要求するべきとも思いません
  • つーか、原文と[K]の訳を引用した上で自分の試訳を付して批判しているわけで、間違っていればそう判断できるので……
  • いずれにしても、「ブラリ=フォルティがツェルメロの前に集合論の公理化を行った」などという誤解が広まることは避けたいです
  • それよりもみなさんこれをなんとかしてください→http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081102

序文というか

なんというか、渕野先生がそこまで自分の意見を絶対だと思っていることを仮定しなくてもよいと思うんですけれども。意見を聞いて納得できるところは納得して、そうでないところは無視するなり批判するなりすれば。
私に関して言えば、原著も翻訳も通して読んでいないので何もいえないというのが一番正しいです。そのことは元のエントリでもきちんと言っていると思うのですが。ただし、ツェルメロより先にブラリ・フォルティが集合論の公理化を行った、などという誤解が広まることは絶対に避けるべきだと思ってあのような紹介をしました。それに、原著を引いた上での意見ならば多いに越したことはないと思いますので。何の根拠もない誹謗中傷が続くならともかく。

無限∈下降列

一番分かりやすいのは、無限∈下降列の先頭に置かれているような集合を形容する言葉の訳し方に関する箇所で、「病的な興味を示す素人数学者が後を絶たないから」とか「不愉快な傾向」だとか、翻訳の正しさとどう関係するのか不明な理由をあげています。

渕野先生はこの部分については誤訳だなどという主張はしていないのですが。

[K] の「彼はこのような集合を「異常」と呼んだが、」は日本語として破綻している.また,[K] は“curiosity” を,「興味深いもの」と訳しているが,この単語は,ここではぜひ,もとの単語の持つ「けったいな」とか「変な」というニュアンスを含めて訳してほしかった.

interesting (object)などといわずにcuriosityと書いてあるニュアンスを取り入れた方が良かったという至極穏当な主張です。しかも、表現としては「訳してほしかった」と願望を述べているだけです。その後にあるのは彼がその願望を持っている理由であって、翻訳の正しさと関係がなくても何の問題もないと思います。まあ、「『欠陥』ではなく」という形の対比で出てきている言葉なので「奇態な」は行き過ぎのような気はしますか。

of mathematical interest

この次の箇所で渕野氏は"of mathematical interest" の訳として「数学的に興味深い」は不適切と主張していますが、その根拠も意味不明です。渕野氏のように「数学的に意味のある」と理解することも可能でしょうし、一方で "mathemtically interesting" の訳も「数学的に興味深い」となるのでしょうが、[K]の訳が不適切な根拠にはなっていません。私の目には殆ど「難癖」に映ります。

渕野先生の文章だと、"of mathematical interest"は「数学的に興味深い」という意味には決してならないと主張しているように見えます。確かにそうではなく、「数学的に興味深い」という意味にもなりうると思います。この意味で、渕野先生の理由付けは不十分であるとはいえると思います。
ただし、ここで問題になっているのは{N, P(N), P^2(N), ...}という集合であって、これは「数学的に興味深い」というよりは、「数学の宇宙に当然存在しているべき」と思われていたものでしょう。この意味で、「数学的に興味深い」は最適な訳ではないと思いますがいかがでしょうか?

選択公理の独立性

その後も「難癖」みたいな指摘が続きますが、最後の選択公理の独立性の箇所に至っては渕野氏の意図がさっぱり分かりません。(以下略)

それがどの程度適切かはさておき、渕野先生の意図は明白だと思うのですが。
[K]の訳はこちら。

その結果、選択公理の独立性は以前よりずっと難しい未解決問題となって再登場した。ゲーデルはこの問題に1940 年代初めに多くの努力を傾注したのだが、限定的にしか解決できなかった。

渕野先生の試訳はこちら。

しかし,その結果,選択公理の独立性は,ゲーデルが1940 年代初めに多くの時間と労力を傾けたが部分解しか得られなかったというような,もっとずっと難しい未解決問題として再び立ち現われることになったのである

[K] の訳ではゲーデルが解けなかったことに重点が置かれてしまっている(ように解釈できる)のに対して、渕野先生のものではゲーデルが解けなかったことは選択公理の独立性が難しいことの証拠としてのみ扱われています。その違いは大したことでないから文章をすっきりさせることを優先して[K]のようにやる方が良いと考えるか、その違いは重要なポイントだからきっちりと訳出すべきだとするかは意見の分かれるところかもしれませんが。いずれにしても、渕野先生の論拠は明らかに「著者の意図」ではなく原文そのものだと思うのですが。
それ以降の部分に関しては、原著も[K]の訳も通して読んでいない私にはコメントできかねます。

公理系が取り扱っていないもの

もっと細かい話で、最後から二つ目の箇所「公理系が取り扱っていないものは存在しないものとみなす」(渕野訳)は、誤訳ではないでしょうか。(以下略)

あー、これは確かに適切ではないですね。もっとも、これが意味するところはほぼ明らかだと思うのでダメージは少ないかと思いますが。ただ、「存在する権限を与えられている」だと、権限を行使せずに存在していない可能性もあるような印象を与えてしまいかねないとも思いますが。こういうことを考えていくと、「英語で読んではっきり意味は理解できているんだからそれでいいじゃん」とか思ってしまうのですが。

イエスマン

さっと目に付いた箇所だけ書きましたが、渕野氏の(今回の)批判は万事この調子で、とても「一人相撲」でないことを分かってもらおうとして書いたとは思えません。誰も問題点を指摘せずに「渕野先生の仰る通り!」というようなコメントばかりなのが不思議です。「ギルド」のせいなのかと思っていたのですが、そうでないとするとイエスマンばかりなのでしょうか。

あの文章を取り上げているページって、私のところとid:ytbさんのところしか知らないのですけれども、他にどこがあるのでしょうか?とりあえずこことid:ytbさんのところでは中立的な紹介にとどめていて、決して「仰る通り」なんてものではないと思うのですが。というわけで、「イエスマン」をみたことすらないのでコメントしようがありません。

終わりにというか

一応真面目に書きましたが*1、とりあえず判断材料は多いほうが良いんじゃないですかというだけの理由でも、渕野先生の文章は読んでおく価値があると思うのですが。少なくとも、ツェルメロが集合論の公理化をしたのは、すでに存在した公理系に満足していなかったからではなく、公理系が存在していなかったからだということははっきりさせておかなくてはいけないだろうと。

*1:推敲なんて全然してないのでいろいろ変なこと書いているかもしれませんが