『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』のこと(その2)、または「螺旋だ」(ネタばれあり)

お断り: 私が読んだのは献本していただいたものです。また、ネタばれおよび私の妄想(かなり強度)を含みます。

「螺旋だ」

どうにもエピローグのこれがきついです。もちろん第7章の終わりの観覧車は螺旋でない単なるループ、第9章の終わりの灯台は螺旋、そこから見える海は今の世界から飛び出していこうとするミルカさんの暗示。んで、観覧車のことじゃない苦手なことはそれが暗示する単なるループでしょう。
というところで私の妄想は膨らんで、最初の『数学ガール』の第1章、桜の木を見上げて立っていたミルカさんを思い出す。ああ、彼女は終わりが見えないループの中、何年も何年も同じ場所で誰かを待っていたのだろうなぁと。同じ学校、同じ年齢のままで。(だから強度な妄想を含むと断っていたでしょうが。こういうのが気持ち悪ければさっさとページを閉じなさい!)。
そう考えればようやく「ミルカさん、テトラちゃんのイスを蹴っ飛ばす事件」が腑に落ちます。あの時点でのテトラちゃんは、ミルカさんにとってはようやく見つけたループを抜け出せるチャンスを台無しにしかねない存在だったんですね。

「わかった」とミルカさんが顔を上げて、僕の言葉をさえぎった。なぜか、にこにこしている。「図書室で数学。きみの後輩。名前はテトラ。もう覚えたから大丈夫」

なるほど、と。

ただし、ミルカさんが抜け出た代わりに「僕」は学校にい続けるんですよ。先生と言う立場ではあっても「何度も何度も巡ってくる、この季節」をそのまますごし続ける。だからこそ、ミルカさんは灯台の上であれだけ強く諭す必要があったし、最後には目を伏せざるを得なかったわけです。どうにもきついなぁ。

いや、別にこういう中二病設定を考えなくてもいいんですよ(じゃあ書くな!)*1。必死になって前に進んでいるのに、結果としては同じところをぐるぐると回っているようにしか見えないときに、「繰り返しながら昇っていく――螺旋だ」と言えるかどうか、同じように努力していられるのかどうかということを自問自答すると、まだまだ自分は甘いなあと思いますね。

思えば、最初の『数学ガール』では《振動は回転の影だ》といっていたのだった。振動が回転になり、回転が螺旋になり、そうしてみんな空高く羽ばたいていくんでしょうね。

なぜゲーデルの原論文に忠実であろうとしたのか

2009-12-24 - くるるの数学ノートのコメント欄で聞かれていますが、なぜ原論文に忠実な筋書きを守ろうとしたのかということ。もちろんこれは私の想像ですけれども。螺旋のイメージにあるのは、「回転に見えて上昇」の面と「上昇に見えて回転」の面があるだろうと思います。この後者の面を出すために、現代的にすっきりとさせた証明ではなく、ゲーデルが新しい場面を切り開いていこうとしたそのときの泥臭さを背景に出すことが必要だったのだろうと思います。今の視点から見れば、面倒なコーディングと古臭いPMという体系を使ったゲーデルの証明をなぞっていきながら、その「今の視点」も上から見ればゲーデルがやってくれたことを本質的には踏襲しているんだと言いたかったのでしょう。
非専門家向けの本でコーディング部分を全部書ききっちゃうという時点で無茶しあがってって感じなのですが、いろいろなトリックを使って簡略化を図るのがむしろ自然なシチュエーションで逆方向にやりきってしまった結城さんはやっぱりとんでもないと思います。

まあ、それだけのことです。

崖のこと

その繰り返しながら昇っていく螺旋のイメージに加えて、飛んでいくイメージもこの本には強くあるわけです。

「空を飛べば?」と母が言った。「地面がないなら、空を飛べばいいのよ」

何回見てもこれはすごいセリフだなと思います。同時に20代の頃の私だったら絶対に「そんなに簡単に飛べたら苦労しないんだよこのやろう!」とか反発していただろうなと思います。正直レビューの時にはこういう部分で若い読者が離れないといいなと思っていたのですが、どうも今の若者は私が同世代だった頃よりもよっぽど大人だったみたいです。

しかしまあ、自分の息子をここまで突き放せる母親も大したものだなと。よっぽどきっちり育てて絶対に大丈夫だと言う自信があるのでしょうか。この場面に私自身が遭遇したときに、果たして私はそう言えるのかなと考えてみたりします。

テトラちゃん祈る

twitterでの私のTL上にもたくさん宗教嫌いの人がいるはずなのですが、なんかけろっとスルーされているっぽくて、結城さんのさじ加減のすごさを感じますね。レビュー中には、アレルギーを起こしちゃう読者が出るかもなぁと結構心配したんですけれども。

むしろ本当に飛んだのは……

もうすでに何個か書きましたが、「えっ、こんなこと書いちゃうの?これだけ成功しているシリーズでわざわざこんな賭けに出なくても」とか思う部分が他にもありまして。っていうか、すでに書きましたがゲーデル不完全性定理を題材にするよという時点で最初からギャンブル*2。結城さん自身も日記などに「こんなに難しい本はもう書けない」という趣旨のことを書かれていましたが、もうハードルがあがりっぱなしで。
だから、「空を飛べば?」はむしろ結城さんが自分自身に向けて書いたメッセージなのではないかと言う気さえします。地面がないなら、経験したことのない局面なら、翼を広げて羽ばたいて飛ぶしかない、と。そのこと自体が、「空を飛べば?」を単なる楽観主義ではなくもっとリアリティのある言葉にしているのではないかと思います。

結論として

フェルマーのときと同様、読めば読むほど味が出るとても良い本なのですが。しかし、こちらはそれと同時に苦しくて重い本でもあるよなぁと。フェルマーのときは学会に出かけるその日の朝にメールボックスに入っていたのをかばんの中に入れて飛行機の中と宿泊初日で読みきったのですが、今回は本が届いてからもなかなか読み始められなくて。皆さんの書評ですらろくに目を通せないという。そういう本ならではの価値と言うのはありますね。
というのが正直な印象なのですが、なんだか皆さんごく普通に読み通してらっしゃるようで、これって私の精神が甘っちょろすぎるのではないかという気がしてきました。すみません、もっと真面目に生きます。

あとちょっとだけ

長く書けばいいというものではないのですが、数学のことについてまだほとんど触れていないので、そちらの方はまた今度。また一ヵ月後くらい?(爆)

*1:本当に私の頭で展開されているのは、これよりもはるかに重症の中二病なんですが。

*2:もちろん、敬虔なキリスト教徒たる結城さんは「賭け」とか「ギャンブル」とかいう言葉で形容されるのは少なくとも戸惑うかと思うのですが。