そろそろ『数学ガール/フェルマーの最終定理』について一言言っておくか

えーと、タイトルは釣りです。一応自分もレビューアとして関わっているわけなんで。出版直後に献本を頂いておきながら、今頃のそのそ書いてみます。

数学ガール フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)

数学ガール フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)

レビューはとても面白かったです。っていうか、あの結城浩さんから定期的にメールが来るですよ?なんかミーハー的に嬉しいじゃないですか(爆)。多分数学的に間違った記述はないと思います。レビューはしたけれども査読と言うわけじゃないのでプレッシャー感じる必要もなかったのかもしれませんが、やっぱり気になって細かく読んでコメントしました。もっとも、最初から大穴はありませんでしたが。
んで、改めて出版されたものを読んでみての感想ですが。実にうまく構成されているなぁと思います。いろいろなところに仕掛けと言うか伏線というかがあって、読むたびに発見があります。まあ、最近すっかり小説などは読まなくなってしまったので、そういうものを見つける能力が衰えているのかもしれませんが。
例えば。最初の『数学ガール』と違って、章ごとの題材と難度にばらつきがあるなぁと最初は思ったんですよ。ところが、最終章でフェルマーの定理を通じてすっとつながっていくのが見事ですね。

ただし、フェルマーの最終定理自体の証明については、アウトラインと言えるレベルにすら解説していませんので、そういうのを期待して読まないほうが良いとは思います。むしろこれは、変に気負って変なことを書かずにアイデアだけを丁寧にまとめたという意味で長所だと思うのですが。

まあ、いまさら薦めてもすでに読んでくれそうな人は全て読んでしまっているような気がしますが、とりあえず確実に面白い本であることだけは主張しておきます。

以降、ネタバレ+妄想全開で。


この本が普通に楽しい本であると同時に、恐ろしい本であるということに触れている人はあまりいないような気がするのでここに。今手元にある人は、前書きを読み直してください。「死と復活」「命の大切さ」とありますね。

死と復活ですよ?物語の時間軸では誰一人として死んでいないのに。おまけに、結城さんは自他共に認めるキリスト教徒です。彼が「復活」という言葉に感じている重みは、おそらく私の想像をはるかに越えているのではないかと思います。
読み始める前は、死を描くために誰かが死ぬのだろうと予想していました。実は、最初ユーリちゃんが死ぬんだと思っていたんですよ。原因不明の骨の変形ですよ?でも、ミルカさんが交通事故で、「えっ、死ぬのはミルカさん?」とか思ってしまって。でも、ミルカさんも数日で退院してそのまま物語はおしまい。まるで、「誰かが死ぬ話でしか、命の大切さを描けないと思うこと自体が、命を大事に思っていない証拠なんですよ」と言い聞かせるかのように。
それでは何が死に何が復活したんでしょう?これにはいくつかの答えがあると思います。一番単純には、ユークリッドが蘇ってフェルマーに読まれたこと、フェルマーの書き込みがサミュエルによって出版されて他の数学者に読める形で蘇ったことでしょう。また、ミルカさんのお兄さんが持っていた夢や希望も、ミルカさんの中で蘇って生き続けているのだと思います。
ミルカさんがお兄さんのことを言う直前に口にするのは、「定義が無矛盾なら存在する」という、どう見てもゲーデルの完全性定理の標語的な表現です。物理的な形はとっていなくても、気持ちなどといったものが実際に存在するんだ、ということを数学の力を借りて言おうとしているのだろうと思います。あ、もちろんこれは完全性定理の帰結ではないですよ。傍証というか、イメージというか。ただ、それでもミルカさんはいつものクールさからすると信じられないくらい、血のつながりに敏感なんですよね。

それと、多分誰も指摘していないのだと思うのですが、この本では鳩ノ巣原理(pigeon-hole principle)と無限下降法が両方取り上げられています。無限下降法はフェルマーの最終定理のn=4の場合を証明するために出てきたわけですが、鳩ノ巣原理はなぜ出てきているでしょう?多分、基数と順序数のことを示唆するためではないかと思うわけですよ。自然数鳩ノ巣原理が成り立つように拡張したものが基数、無限下降法が成り立つように拡張したものが順序数ということが出来ますから。
本当に、あちこちにちょっとした仕掛けがしてあって、飽きない本ですね。

エピローグですが。「僕」のような人がユーリちゃんと同じような髪の毛をしている女の子の先生として存在していて、これはまさにユーリちゃんが思い描いていた、しかし「僕」があり得ないといった光景なわけで。単にユーリちゃんの希望がかなった世界を描写しているだけなのかなぁと思いつつ、ずーっとどういうふうに解釈するべきか考えていたのですが、ようやくわかってきました。本編部分の最後が「アンドロメダでも数学している」で、この場面につながっているのだから、これはアンドロメダの数学ガールの世界なわけですね(そんなことに気づくのに半年以上かかってしまった)。本来の物語世界とパラレルだけれども、少し違ってユーリちゃんの希望していた「お兄ちゃんが先生」が実現しているわけですな。だからこそ、最後に雪が降ってきて空を見上げるところが生きてくる。空、そして宇宙を通してつながっている二つの世界といった感じで。
っていうか、それだけじゃないですね。空を見上げて少女たちのことを思うんだから、この先生をやっている「僕」は、実は地球にいた「僕」が転生してきた姿なんですよ(な、なんだってー!!)。そして、「僕」が「僕」なんていう中途半端な名前を与えられている理由は、彼の名前が村木であり、本編での村木先生は違う世界の「僕」が転生してきた姿であるからなんですね。

とか。えーと。
私の妄想はともかくとして、この本はとてもいろいろな角度から見られる本で、しかもそのいろいろな角度からそれぞれ輝いて見える本だと思います。作者本人が

食後、ふと『数学ガールフェルマーの最終定理』をめくっていたら、やめられなくなって、最後まで通しで読んでしまった。自分で書いたから言うわけじゃないけれど、この本すごくおもしろい。私が読んでも何度も発見がある。

http://www.hyuki.com/d/200901.html#i20090125195703

なんて言っていたら普通はジョークにしかならないのですが、この本に関して言えば本当にそうなのだろうと思います。

というわけで、読んでない方は是非、読んでしまってまだ手元にある方はもう一度目を通していただけると、また何かしら発見があるのではないかと思います。